横綱・鶴竜引退インタビュー「身体と心の限界のあいだで感じた思いと決断」 – auone.jp

横綱・鶴竜引退インタビュー「身体と心の限界のあいだで感じた思いと決断」  auone.jp…

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 16歳でモンゴルから、来日。バランスの取れた体躯と巧みな相撲で、横綱を41場所務めた鶴竜。ここ数年は負傷に悩み、3月の春場所中に現役引退を発表した。土俵への熱い思い、同学年の横綱・白鵬への言葉など、19年にわたる相撲人生を振り返ってもらった。

ーー横綱・鶴竜から「鶴竜親方」になった今の心境は、いかがですか?

鶴竜親方(以下、鶴) 春場所の途中で引退を決意したときは、「何かから解放された」、そんな気持ちで、何も考えられませんでしたけど、今、(所属の陸奥)部屋の力士たちの稽古も始まって、「これからは別の立場で頑張っていこう」と新たな気持ちになりました。スッキリした気分です(笑)。

ーー3月25日の引退会見では時折、笑顔を見せられていたのも印象的でした。

鶴 確かに、涙はなかったですね(笑)。16歳から相撲を取ってきて、いろいろなことがあったけれど、振り返ってみると、悔いはまったくないんです。自分としては、昨年の7月場所から休場が続いて、「早く土俵に復帰したい!」という気持ちでした。これまで、ケガをしても幾度も復帰できていましたし。ですから、春場所前の国技館での合同稽古にも参加して、若手力士と相撲を取ったり、自分なりに調整をしていました。ところが、場所直前の稽古で左太ももの筋肉が切れてしまって。ケガをした瞬間は、体もいい感じだし、「大丈夫、まだいける」と思ったんです。ただ、ケガの治りが遅く、「次の場所でも間に合わないのかな」と。多くの人たちに、もう一度、土俵に上がる姿を見てもらいたいと思っていたし、自分の目標でもあったのですが、だんだん「もういいかな」と……。気持ちの面でも削られていったんでしょうね。いい感じで治っても、また違うところがケガをする。それが続くと、「体が信号を出してくれてるのかな」と思うようになりました。これからの人生のほうが長いわけですからね。

ーー心身ともに、限界を感じたということでしょうか。

鶴 そうですね。横綱として、中途半端な状態で土俵に上がるわけにはいかないですから……。「これが最後の相撲」と決めて土俵に上がれなかったことは、残念に思っています。

■井筒部屋に入る前の思い出

ーーさて、親方は多くのモンゴル出身力士と違って、少年時代にモンゴル相撲の経験はなかったそうですね。

鶴 ハイ。白鵬関のお父さんはモンゴル相撲の横綱だし、朝青龍関や時天空関のお父さんも強い人。子どもの頃からモンゴル相撲が身近にある人もいますが、私の場合は、そういう環境はなかった。それよりもバスケットボールが大好きで、NBAのファンでした(笑)。それで15歳のとき、八角親方(元横綱・北勝海)が、モンゴルで少年相撲大会を開くという話があって、私も参加したんです。しかし、あえなく予選落ち。そこで優秀な成績の少年は、日本に渡って力士になれました。相撲経験がなかったにせよ、「予選落ち」はショックでしたね。そんなこともあって、「力士になりたい」という思いが強くなっていったんですが、どうやったら力士になれるか、分からない。困っていたら、父の知り合い(大学の日本語教授)が助け舟を出してくれて、日本の相撲関係者のところに手紙を2通送りました。「受け入れてくれる部屋がありましたら、期待に応えるべく、一生懸命頑張ります」という内容です。

ーーその1通が、のちに入門することになる井筒部屋に届いたんですよね?

鶴 手紙は本当に運任せだったんですが、送付した翌月くらいに、モンゴルの自宅に、井筒部屋のおかみさんから電話がかかってきて、「すぐにでも、日本に来ませんか?」と。さすがに、「わ〜、どうしよう!?」となりましたけど、それから半年後に、日本に行くことになったのは幸運でした。初めて部屋に入ると、畳の匂いが独特だったことを覚えています。あれから、男になって、お父さんになって。手紙に書いたことを守れたのはよかったですね。

 このあと鶴竜には土俵での思い出や19年分の相撲にかける思いを語ってもらった。この続きは現在発売中の『週刊大衆』5月3日号で。

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