子どもの頃に住んでいた家は、部屋が二つのアパート。お父さんはモンゴル国立科学技術大の教授ですが、全然お金持ちではありません。日本の大学の先生とは天と地ほど違う。寝る場所はお母さんと三歳上のお姉さん、私の三人が寝室で、お父さんはリビングのソファでした。
お母さんも鉄道のチケット売り場などで働いていて、私はお姉さんと留守番することが多かった。モンゴルでは掃除は子どもがやるもの。私は「洗い物は嫌だから違うところをやらせて」とお姉さんに甘えていました。
お父さんは「勉強しろ」とはあまり言わず、私がバスケットボールやテニスなどのスポーツをする方が喜んだ。若い頃、体が丈夫でなかったらしく、その分息子にやってほしかったようです。「貧乏のまま死んでいくのは悲しい。一度きりの人生、いい生活ができるように頑張らなきゃだめだ」とも言われました。
テレビの衛星放送で大相撲を見て「体が小さくても技で勝てる。私もやってみたい」と思ったのは十四歳の頃。相撲関係者に手紙を出す時は、私が書いた文章をお父さんの同僚が日本語に訳してくれました。当時のモンゴルは社会主義から資本主義に変わって混乱していた。恵まれた環境だった…
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